85/05
-幻のつくば写真美術館からの20年

資料室

「写真美術館という夢」:飯沢耕太郎(写真評論家)

「つくば写真美術館 '85」からもう20年が過ぎてしまった。そのことを考えると、いろいろな感慨を覚えないわけにはいかない。つい昨日のことのように思えるにもかかわらず、あっという間にかなりの歳月が飛び去ってしまったというのもそうなのだが、それ以上に当時と現在の写真を取り巻く環境の変化の大きさ、激しさに、驚きを禁じ得ないのだ。

今回、せんだいメディアテークで、「85/05-幻のつくば写真美術館からの20年」展が開催されるのをきっかけに、あらためて「つくば写真美術館 '85」のことを振り返ってみるのは、とても有意義なことではないかと思う。それは同時に、僕自身も含めて多くの写真関係者が「写真美術館」の創設という夢に向けて、さまざまな形でアプローチしていった、その過程を検証してみることに他ならないだろう。

今僕の手元に『日本写真美術館』と題されたA5判のパンフレットが3冊ある。写真家で長く日本写真家協会の会長をつとめていた渡辺義雄を代表とする日本写真美術館設立促進委員会が発行したもので、「1 設立趣意」の号は1979年に、「2 海外の写真美術館」は1980年に、そして「3 設立運動の総括」はそれからかなり時間を経た1994年に出ている。この3冊を見ると、その設立促進委員会の活動が「写真美術館」の夢の実現に直接結びついていったことがよくわかる。

写真美術館設立促進の運動のきっかけになったのは、1968年に日本写真家協会の主催で開催された「写真100年-日本人による写真表現の歴史」展だった。この時展示された1,600点の写真、また1975年の「日本現代写真史展−終戦から昭和四五年まで」に展示された写真、及び両展開催のために調査、収集された資料をどう保存していくかが問題になった。それまで日本には、専門の学芸員を置き、本格的に写真作品を収集・展示することができる公共施設は皆無だったのだ。1969年に写真資料室の設立が提唱され、それが「日本写真文化センター構想」に発展していくことになる。

1978年11月、日本写真家協会の呼びかけで、34名が出席して日本写真文化センター設立準備懇談会が開催された。ちょうどその頃、東京国立近代美術館分館の京橋フィルムセンターが改修されるという話があり、そこに写真作品の展示施設を設け、「写真美術館」とするという構想が具体化していった。それを受けて1979年5月、日本写真美術館設立促進委員会と改称した旧懇談会のメンバーは、文化庁に犬丸直長官を訪れ、「日本写真美術館設立要望書」を手渡した。

ところがこの構想はなかなか進展しなかった。1980年代に入って、「写真美術館」を東京国立近代美術館の分館に設立するという計画は、さまざまな事情から一時棚上げを余儀なくされる。結局設立促進運動が具体的に実を結んでくるのは、写真部門を持つ川崎市市民ミュージアム(設立1988年)、横浜美術館(同1989年)、東京都写真美術館(第1次開館1990年、本格開館1995年)が相次いでオープンする1980年代後半~90年代まで待たなければならなかったのである。ちなみに改修された東京国立近代美術館フィルムセンターに、ようやく写真部門が設立されたのは1995年になってからだった。

ところが、「写真美術館」の夢は実に意外な場所に、意外な形で実現していくことになる。1978年4月、東京・日本橋にツァイト・フォト・サロンがオープンした。日本で最初に写真作品を売買の対象として扱うようになった専門ギャラリーである。

オーナーの石原悦郎は自由ヶ丘画廊で現代美術のディーリングの経験を積み、パリやベルリンなどに滞在を重ねるうちに、美術作品としての写真の重要性に目を開かれていった。1970年代は、世界的に写真作品がオークションなどで注目されはじめた時期である。希少性が高い19世紀の写真草創期の作品や、世界的に名の知られた巨匠たちのいわゆる「ヴィンテージ・プリント」の価格は急騰していた。それだけではなく、「報道写真」のようなコミュニケーションの手段としてだけでなく、写真の芸術的価値が大きくクローズアップされてきたのもこの時期である。

ツァイト・フォト・サロンは、最初の頃は石原自身の個人的なコネクションもあって、マン・レイ、ブラッサイ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ビル・ブラントといったヨーロッパの有名作家の展示が中心だった。だが、1980年代以降は、細江英公、森山大道、荒木経惟といった日本の写真家たちや、より若い世代の柴田敏雄、白岡順、服部冬樹、畠山直哉らの仕事も取り上げるようになり、日本を代表する写真専門ギャラリーとしての評価を高めていった。

そんな中で、石原はツァイト・フォト・サロンのコレクションを元にした「写真美術館」を設立するという構想を抱くようになる。そのきっかけの一つとなったのは、おそらく1982年9月に神奈川県立近代美術館で開催された「フォトグラフ・ド・ラ・ベルエッポック展 花のパリの写真家たち 1842—1968」だろう。

写真術の発明者の一人であるイポリット・バヤールからロバート・フランク、ウィリアム・クラインまで、フランスを舞台に活動した写真家33人の267点の作品から成るこの展覧会は、全点がツァイト・フォト・サロンのコレクションで構成されていた。そのカタログの編集委員には、神奈川県立近代美術館の学芸員の他、石原とツァイト・フォト・サロンのスタッフである前田実や、のちに「つくば写真美術館 '85」にかかわることになる横江文憲、谷口雅、平木収の名前が見える。また、この展覧会に合わせて刊行された『アサヒカメラ増刊 巴里PHOTO』(朝日新聞社)には上記の横江、平木に加えて金子隆一と飯沢耕太郎も執筆していた。

石原の中で明確に「写真美術館」のアイディアが形を形をとってきたのは、この展覧会の成功によるところが大きいのではないだろうか。たまたま1985年には、茨城県の筑波学園都市の近郊で、1970年の大阪万博以来の大イベントである「科学万博つくば '85」が開催されることになっていた。ここで初めて「つくば」と「写真美術館」という一見まったくかけ離れた二つのタームが結びつくことになる。

実際にいつスタートしたかは、やや記憶が曖昧なのだが、「つくば写真美術館 '85」のプロジェクトは1983年中には動き始めていた。石原が考えていたのは、これまでのフランスやドイツを中心としたラインナップではなく、アメリカや日本の現代作家も加えた包括的な写真史展を開催するための美術館の建設だった。たしかに科学博の期間だけという限定された「テンポラリー・ミュージアム」ではあったが、それは将来的には恒久施設にまで発展していくことが期待されていた。そのためには単なる総花的な展示ではなく、コンセプトをしっかりと定めた展示プランが必要になる。また、かなりのボリュームになるカタログも短期間で刊行する必要があった

そのために石原は思いきった作戦に出た。ツァイト・フォト・サロンのスタッフだけでなく外部の若手写真評論家、写真史研究者を巻き込み、「キューレイター・グループ」を作って実際の企画・運営、カタログの編集・執筆に当たらせようということである。こうして金子隆一、平木収、横江文憲、谷口雅、伊藤俊二、飯沢耕太郎の6人が招集されることになった。

金子隆一
1948年生まれ 写真史研究家、のちに東京都写真美術館専門調査員
平木収
1949年生まれ 写真評論家、のちに川崎市市民ミュージアム学芸員を経てフリー、現九州産業大学教授
谷口雅
1949年生まれ、写真家、現東京綜合写真専門学校校長
横江文憲
1949年生まれ、写真史研究家、のちに西武美術館、東京都写真美術館、東京都庭園美術館を経て現東京都美術館学芸員
伊藤俊治
1953年生まれ、評論家、のちに多摩美術大学を経て現東京芸術大学教授
飯沢耕太郎
1954年生まれ、写真評論家、現在も写真評論家

こうして6人のメンバーのプロフィールを眺めていると、やや手前味噌にはなるが、彼らがその後の日本の写真表現の動向に大きな影響を与える仕事を展開していったことがわかる。いわば彼らの「つくば写真美術館 '85」での経験は、川崎市市民ミュージアムや東京都写真美術館のような1980年代後半以降に具体的に形をとってくる「写真美術館」の活動に、さまざまな形で生かされていったのである。

実際には「キューレイターグループ」は定期的に会合を開き、ツァイト・フォト・サロンのスタッフと協議しながら、美術館の展示の全体プランを作り上げることから作業を開始した。それは開館が近づくにつれて、1ヵ月に一度から1週間に一度、さらにはほぼ毎日顔をあわせるところまで頻度が増していったと記憶している。そしてその密度の濃い話し合いから、「パリ・ニューヨーク・東京」という総合テーマが浮かび上がってきた。

誰が、どのような形でこのテーマを提起したのかも、今や記憶が薄れてしまった。だが、「つくば写真美術館 '85」のカタログに「パリ・ニューヨーク・東京-都市のなかの写真表現」と題する序論を書いている伊藤俊治が、そこで主導的な役割を果たしたのは間違いないだろう。

「あらゆる都市のなかで、パリほど『19世紀』という概念と親密に結びついている都市はない。同じような意味でニューヨークほど『20世紀』というイメージにぴったりの都市はないし、東京ほど『21世紀』という新しい時代像に密接に関わる予感を秘めている都市はないように思う。

写真史に即して言えば、このようにいいかえることができるかもしれない。写真は『パリ』で生まれ、『ニューヨーク』で成長し、今、『東京』で新たな形で展開されようとしていると。」

伊藤はこんなふうに書いて、「つくば写真美術館 '85」のコンセプトを示している。つまり「パリ」のパートが19世紀=過去を、「ニューヨーク」のパートが20世紀=現在を、「東京」のパートが21世紀=未来を表象するという明解な3部構成の展示プランである。

もちろん実際に実現した展示は、これほどすっきりした枠組におさまり切れるものではなかった。第一ヨーロッパ、アメリカ、日本の作家を、それぞれ「パリ」、「ニューヨーク」、「東京」という3つの大都市の名前でくくってしまうこと自体に無理がある。たとえば、「東京」のパートには中山岩太、小石清、ハナヤ勘兵衛など、主に関西地方で活動した写真家も含まれていたのである。それでもこの3部構成の展示プランによって、170名の写真家たちの400点近い多種多様な作品を、一つのまとまりのある構図で見ることができるようになったことは確かだろう。

展示の準備を重ねるうちに、それまで石原が主に収集してきた、フランスを中心としたヨーロッパの写真家たちの作品だけでは足りないことが見えてきた。

急遽アメリカの現代写真家(ウィリアム・エグルストン、スティーブン・ショアなど、「ニュー・カラー」の作家を含む)の作品が購入され、日本の戦前の写真家たちも重要な収集の対象になった。「調査」を兼ねて、僕を含めた何人かのメンバーが、当時まだ御存命だったハナヤ勘兵衛氏を兵庫県芦屋市に訪問するというようなこともあった。

それと並行してカタログの制作も進められた。展示プランに合わせて、「パリ」、「ニューヨーク」、「東京」のパートごとに作品が紹介され、巻末にはグロッサリー(技法解説)とインデックス(作品リスト)がついた、全300ページの堂々たる造本である。それぞれのパートの解説は、「パリ」が横江文憲と平木収、「ニューヨーク」が伊藤俊治と金子隆一、「東京」が飯沢耕太郎と谷口雅が担当した。装丁・デザインは中村義郎、印刷は大日本印刷株式会社である。

この種のカタログとしては、造本においても、内容においても、当時の水準を遥かに超えた力作だと思う。最後に朝日新聞社が展覧会を共催することが決まり、カタログには同社の名前が並記されている。だがこれはあくまでも名義上のことで、実質的な準備作業はほとんどがツァイト・フォト・サロンのスタッフと「キューレイター・グループ」の手で進められたことは明記しておくべきだろう。

こうしていろいろと紆余曲折はあったものの、何とか展示会場の建造やカタログ編集の作業が間に合って、「つくば写真美術館 '85」は1985年3月9日に無事開館した。日本最初の「写真美術館」は、公的な施設としてではなく、民間のパワーを結集することで実現したのだ。なお9月16日に半年の会期を終えたのちに、展覧会は11月9日~12月22日には宮城県仙台市の宮城県立美術館に巡回している。

「つくば写真美術館 '85」の展示そのものは、週刊誌や新聞にも大きく取り上げられ、高い評価を受けた。だが、美術館の運営は経済的には失敗に終わったと見るべきだろう。具体的な数字ははっきりしないが、観客数は予想をかなり下回り、カタログの販売も伸び悩んだのである。

なぜそんなことになったかといえば、美術館の立地条件が悪すぎたということに尽きる。石原が展示会場として最終的に設定した「茨城県筑波郡谷田部町大字小野田字成田260—1」という場所は、科学博の会場からも、筑波学園都市の中心部からも相当に離れていた。しかも自動車で行く以外は他の交通手段もなかった。これでは観客が集まらないのも当然というべきだろう。展覧会の準備に精力を注ぎ過ぎた結果として、場所の設定という最重要事項に誰も頭が回らなかったというのが本当のところだったのではないだろうか。

たしかにこの時の経済的な損失は石原にはかなりの痛手だっただろう。だが彼はすぐにそのショックから立ち直り、以前にも増して日本に写真をアートとして定着させるという事業に邁進していくようになる。1989年の「名古屋デザイン博覧会」では、「オリエンタリズムの絵画と写真」展を開催し、1990年の「国際花と緑の博覧会」(大阪・鶴見緑地)では、「自然を愛する芸術家たち」の展示を実現するなど、その後も内外の多くの写真家たちの作品を扱い、展覧の機会を与えてきた。

その一端は今回の「85/05」展の第2部「/05 ニュー・ジェネレーション 継承者たち」のパートで見ることができる。ここに展示されている森村泰昌、宮本隆司、金村修、屋代敏博、米田知子、市川美幸、鯉江真紀子、オノデラユキらは、80年代後半から90年代にかけて登場してきた作家たちであり、現代美術と写真との境界線が次第に消失していったこの時代の状況が、彼らの作品から浮かび上がってくる。近年は上海に拠点を設けるなど、アジアの作家たちの発掘、紹介にも意欲的に取り組んでいる。

さて、今再び「つくば写真美術館 '85」を振り返ってみると、それがいろいろな意味でその後の日本の写真表現を巡る動きの転換点であったことがわかる。6人の「キューレイター・グループ」のひとり一人が、それぞれのやり方で写真の現場に関わり、多くの仕事を成し遂げていったことは先に述べた通りである。それだけでなく、この時に美術館の展示を実際に目にした何人かが、「写真を見る」という体験の面白さを自分の中でしっかりと確認し、その後さらにそれを深めていったのは間違いないだろう。撮影者としてではなく「観客」として写真表現に関わるという新しいアプローチは、このあたりから明確に形を取りはじめたと言い切ってもよさそうに思える。

僕個人としても、「つくば写真美術館 '85」での経験は、語り尽くせないほどの大きな意味を持っていた。大学院を出たばかりで実社会での経験が乏しかった僕にとって、この時の準備作業に参加することは、もう一つの「学校」のようなものだったといえる。多くのことを学び、写真評論家としての仕事を続けていくための大事な糧を得た。今でも時々、日本橋の八木長ビルの5階にあった旧ツァイト・フォト・サロンの狭いスペースで、カツサンド(なぜか夜食はいつもそうだった)を食べながら白熱した議論を闘わせていた頃の情景が目に浮かんでくる。

「キューレイター・グループ」で最年少だった僕も50歳を超えた。そろそろ「幻のつくば写真美術館」をよみがえらせ、語り継いでいく時期が来ているということだろう。

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