10年ほど前に、ある公立複合文化施設のボランティアたちが集まって、「カフェ」なるものを始めたいと言い出した。それまで彼らは美術館におけるギャラリートークを中心に、現在多くの美術館でみられるボランティア活動のほとんどを既に行っていたし、それまでその館で誰も実行し得なかったweb上のコミュニケーションを「ボランティア」で構築した者もいた。とにかく、いつもおもしろそうなことを狙っては実行に移そうという姿勢がとても好ましかったものだ。 当時のことは「美術館とボランティア」という冊子にまとめてある。
さて、その彼らが考えた「カフェ」とは如何なるものか。たとえば誰かが「ワークショップを開催したい」としよう。まずその意志をイメージ上のテーブルに広げる。すると、そのプロジェクトに賛同した別の誰かが情報や技術を持ってテーブルにやってくる。また別の誰かはもっと面白くするアイディアを持ってくる。そうして何人かがテーブルについてプロジェクトをいじっていく間に人や情報が自由に出入りする。もしかしたら違うテーブルの人が「一緒にやろう」と声をかけてくるかもしれないし。つまり、長々と説明するまでもなく、これは今では日常的に行われているweb上の「カフェ」の考え方である。これを、かのボランティアたちがオフ・ミーティングの形でやろうと言い出した事は、わたしにはひじょうに新鮮であった。しかし、公立の文化施設でこれほどまでに柔軟な発想を持っている利用者を支援しよう、などと考えていたところは当時は皆無だったように思う。結局、彼らの「カフェ」が開店することなく終わってしまったのも、管理者側にボランティアに自由度の高い活動を保証するべき発想もなければ体制もなかったからだ。
公共文化施設は「社会性」や「公共性」を謳っているのに、実は意外とどこも閉鎖的だ。カフェのテーブルなど広げようものなら、許可した場所以外に店を開くなといわんばかりに目くじらをたてる。しかし、よくよく考えてみれば、誰もがカフェを広げられる可能性を持つという「あたりまえ」がなければ、「公共」文化施設などと偉そうなことは言えないと思うのだ。幸福なるかな、せんだいメディアテークにははじめからカフェを開く人間を阻むものがない。そればかりか、使えるものは人でも物でも情報でも場所でも、何でも使って、どんどん面白いお店を開いてくださいと呼び掛ける。この姿勢を持つせんだいメディアテークを市民はもっと誇りに思っていい。10年前になし得なかったことを、鮮やかに、しかもあたりまえのこととしているせんだいメディアテークを、わたしはとても羨ましく思っている。