思わぬ人のつながりから、今回トーク・セッションに、企画のレベルから参加させていただいた。一言で言うと、結構面白かった。
何といっても、場の持つ力が、アイデアしだいでいくらでも大きくなっていくことを実感した。残された椅子が人のかかわりを想起させる公園、ネット上から夕食のおかずを分け合うニュータウン、風の気配から人の行きかう姿を感じさせるカフェなど。実例のリアルさを体験的に伝えるスピーカーの語りが、場への想像力をたくましくしてくれた。
もちろんどんな場にも「共振」が必要なように、ここでもコーディネーターと参加者のやり取りが見えないものを見えやすくしたし、他の人の場のことを自分の場へと近づけていった。映画上映に意欲を燃やすリーダーが食い下がる姿など、小グループで語ることのよさが出ていた。
その点で、実はセッションもまた、「場」なのだと改めて体感した。しかも、たった数回なのに、一つの小さな歴史を育んで進む場なのであった。
教育といった領域を仕事にしていると、学校や社会教育施設も本来「場」なのだということを忘れてしまいがちだ。その挙げ句、学校化社会というように、学校でやっていることは何でも学習だなどと勘違いしてしまったりする。「ひと・もの・こと」の中に、ワクワクする教育が埋め込まれていることを、それを紡ぎ出すことが教育を成り立たせていくことを、思いかえせなくなるのだ。それは、メディアテークも一緒かもしれない。施設の管理と創造との狭間に、ここもあるのだ。
だからこそ、セッションで考えたことを聞いてよかったに終わらせたくない。スケルトンのこの建物の持つ無為自然な姿を、場として活かしていくのは、来館者であり、運営者であり、むろん仙台市民でもあるのだから。セッションは、こんな現実への想いさえかきたてている。