東京に遊びに来たフランスの友達と食事をしていたら、話は公共空間のことになった。こちらが日本の社会は今、公共空間を維持すること、持続することの難しさに直面しているのだと述べると、それはフランスでも同じ事だと彼は答えた。でもフランスやイタリアには古くからの都市空間があるからいいじゃないかと言うと、確かにそうだが郊外や新都市はフランスでも全然ダメなんだということだった。そこで子供達はどのように公共空間という概念を教わるのかと聞いてみた。すると彼は学校で教わるものではないよ、きっとあの都市空間から学ぶのだと答えた。これは僕が密かに考えていた答えと同じだったので、僕は嬉しくなって乾杯をした。
日本でも公共空間の概念は学校で教わらない。でも戦後民主主義のもとにつくられた日本の都市から学ぶこともできそうにない。古典的過ぎるかもしれないが、建物のファサードによってかっちりと規定された道路の領域が、たくさんの窓によって包囲されているとか、道が広くなって広場になり、そこに公的な施設が面しているといったヨーロッパの伝統的な街区に暮らしていると、公共空間というのはどういう人間関係や、社会関係を投影しうるものなのかが、なんとなくわかる仕組みになっている。
じゃあ日本の場合これまでどうしてきたのか。都市にかわって図書館とか、美術館とか、市庁舎といった公共の建物というのが公共空間の雛形として捉えられ、行政によって表現されてきたのである。でも最近はそれがうまくいかないことがはっきりわかって来て、公共空間、つまり見知らぬ人同士が普通に一緒に居られる空間は、ただ単に人がたくさん集まるショッピングセンターなどへの依存を高めている。そういうところは一瞬楽しいけれど、すぐに誰かの手の上で揺すられて、金を落とせと強迫されているみたいで息苦しくなってくる。その空間を持続していくことを考えると、大量に消費し続ける選択肢しかないからである。人が集まるかどうかは確かに大事なことだが、それだけで公共空間の善し悪しを測るのも間違っている。
そうは言ってもやはり、施設も広場も街路も、それを持続して行くにはそれが使われなければならない。だからちょっと話はそれるが、住宅は持続に困らない。人間が生きている事自体が無根拠に沸いてくることであり、生きている以上どうしたって住むところが必要だからである。それと同じように人は生きている以上、他人と関わって、共同して集団にふさわしい場所を作っていく必要があるはずである。それなのに公共施設の持続が難しいのは何故だろう。ほとんどのことが商業空間と個人の空間で満たされてしまうので、他人との協同や干渉を伴い、個々人の責任が問われる公共の空間というのは面倒くさく感じられるからだろうか。(次号へつづく)